大正大学硬式野球部・大内康至監督!!


今朝、一本のラインが届きました。

以下、原文です。長文です。(本人・出版社快く了承済み)

【日大三高で体感した松坂大輔の衝撃 大正大・大内康至監督が忘れられない「恩師の姿」とは】

現在、東都リーグ3部に属する大正大野球部を率いる大内康至監督。
その名前を聞いてピンと来る人は、かなりツウなアマチュア野球ファンだろう。

1980年4月25日生まれ。野球界で言うところの〝松坂世代〟だ。
残念ながら、松坂大輔と投げ合ったことはない。だが、すれ違ったことがある。

名門・日大三高出身。中学は軟式野球出身で、身長は170センチ足らずの右投げの投手。
3年間、エースナンバー1番を背負ったことはない。
メンバー入りした2年秋と3年春は背番号11番。最後の夏は10番。
「2番手どころか、3番手くらいの存在でした」と自嘲気味に言う。
そして自虐ネタで笑いを取る。

「気合いだけはありましたよ。ちょっとアホなぐらいの、熱血ピッチングというか。
打てるもんなら打ってみろ!と。で、とことん打たれる(笑)」

ただ、キレのよいスライダーが投げられた。
そして、いくら投げても平気なタフな身体と故障知らずの肩肘。
練習では毎日のようにバッティングピッチャーで投げ続け、試合になると、
予定した投手が不調で試合を壊してしまったような時に、急に「行け」と言 われても
いつでも登板出来た。監督にしてみたら、いてくれると助かるとても便利な投手だった
 
大内が2年生の春、それまで関東一高を率いていた小倉全由が日大三高に赴任し監督に就任する。
それまで、素材の良い選手が集まっていながら、どこか覇気のないこじんまりとした
野球をやっていたチームが、小倉監督の指導で荒々しく変貌していく。

関東一高時代から強力打線を作ることに定評があった小倉監督。
バッティング練習も、決まった本数を打ったら交代する方式から、
ゲージを並べて打席を回りながらひたすら打ち続けるようになった。
スイング量は増える。一学年上のある選手は、入学以来、ホームランを打ったことがなかった。
それが小倉監督が就任した4月から6月までのオープン戦で、なんと20本のホームランを打っている。

チームが変わっていく手応えを、大内はヒシヒシと感じていた。

「それまで、甲子園ってどこにあるんだろう? と。
甲子園の〝こ〟の字も見えてこない現実だったんです。
それが小倉監督が来られて、これで甲子園に行けるかもしれないという気持ちになりました」

大内が最上級生になると、神奈川に一人の怪物投手が現れる。横浜高校の松坂大輔だ。
もはや説明の必要はないだろう。
新チーム結成から公式戦無敗のまま春夏甲子園、明治神宮大会、国体の4冠を達成。
この怪物投手を擁するスーパーチームは、練習試合でも6度しか負けていない。

その6敗の中の一つ、それもチーム結成後初の敗戦が、8月に行われた日大三高との試合だった。
日大三高は先発の松坂から7安打5得点し、5-3で快勝する。
この試合を含め、日大三高は翌年センバツ大会直前の3月、夏の大会を控えた6月末と、
横浜とダブルヘッダー2試合ずつ、計6度の練習試合を行っている。
横浜にとっては、もっとも多く試合をした相手だった。

8月の2試合目は、3-3の引き分け。松坂は右翼の守備に就き、登板はしなかった。
3月の1試合目は、2-3の惜敗。この試合は、センバツでのリリーフの場面を想定した
横浜の渡辺元智監督が松坂をベンチに温存。
7回からリリーフで登板した松坂は、3イニングを投げている。
続く2試合目は1-12の大敗。松坂は試合出場なし。

そして6月の1試合目。松坂の2安打11奪三振の完璧なピッチングの前に、0-3の完封負け。
ベンチから見ていた大内は、「もうケタ違いのボールになっていました」と振り返る。
だから夏の甲子園での松坂の快投を見ても、「凄い」とは思ったが、驚くことはなかった。

昼食を挟んだ2試合目。先発を任された大内は、ブルペンで気合いを入れてピッチング練習をしていた。
ふと横を見ると、上半身裸になった松坂がやってきて、マットを敷いて横になり日光浴を始めていた。

「日焼けかよ!」と気になって何度もチラ見したが、言葉を交わすこともなく大内はマウンドに向かう。
人生でもっとも松坂大輔に近づいた瞬間だった。後年、松坂を取材する機会があり、
「そんなことあったなぁ」と腹を抱えるように大笑いしていた。

試合は横浜が6-4で勝利。松坂は出場せず、大内とは投げ合うことも、
打席で相対することもなく終わった。その後、二人の野球人生が交わることはなかった。

ここまでの話なら、ただの〝負け犬〟キャラ。実際、上下関係が希薄な日大三高で、
大内は今も歳の近い後輩たちのイジられキャラとなっている。
しかし、イジっている後輩たちには、どこか大内に対するリスペクトがある。
それは、そこからの大内の骨太な野球人生を知っているからだ。

大正大に進学した大内。当時も今と同じ3部リーグだった。
ただ、今よりもはるかに選手の意識は低かった。

気合いを入れて入学すると、大内は言葉を失う。
そこにはまともな黒髪で短髪の選手など一人もいなかった。
「ホスト軍団か!」と唖然とした。練習には毎日出て来るが、まったく真剣にはやっていない。
日大三高にもかなりやんちゃな選手はいたが、それと比較すると、
「チーマーと暴走族ではどっちが怖い? みたいな世界です(笑)。
野球の技術以前に、ここにいていいのか? みたいな選手ばかりでした」と面白おかしく喩え話をする。

そういう選手たちの心理を理解出来た。それが今、指導者になって役に立っている面もある。

「セレクションで見た時には、みんな良い選手なんです。強豪校の選手もいる。
でも、高校野球でみんな疲れてしまって、大学野球では〝遊ぼうぜ〟という意識で来ているんです。
そこが同じ東都でも、l部の強豪校と下位リーグを分けるところかもしれませんね」

そういう選手たちとも上手く調和しながら、〝和しても同せず〟で練習への姿勢に関しては自分を貫いた。大内は1年春から先発で起用されフル回転。3部優勝を果たし、
2部最下位の拓大との入れ替え戦に進出する。

2戦目の先発を任された大内は力投。だが味方の援護もなく0-0のまま延長戦に突入し、
延長12回、サヨナラ負け。4年生の春にも3部で優勝を果たしMVPも獲得。
立正大との入れ替え戦に臨んだが、先発した初戦、9回まで1-0と完璧に抑えながら、
9回表に逆転を許し1-2。悲願だった2部昇格は最後まで果たせずに終わった。

「そういう詰めの甘さが、どこかトラウマみたいになっているところがあります。
指導者になって、今も選手に言い続けているんですが、0-0でも、10-10でも、
『ここで、この1点を取られたらダメだ』という点が、試合の中で必ずあるんです。
勝つためにはそこを踏ん張らなきゃいけない、と。教訓ですね」

話は前後するが、緩い環境ゆえに良かったこともあった。
1年生の頃は、午前中のチーム練習が終わると、その足で日大三高のグラウンドに向かい
夕方から後輩たちと一緒に練習していた。

一期下の学年は、甲子園春夏連続出場を果たしている。
「後輩たちの手伝いをしたいのですが」と願い出ると、
主将から「せっかくだから行ってきなよ」と快諾してくれた。
そのお陰で甲子園にも帯同し、公式練習では初めて甲子園の土を踏んだ。

その2年後、大内が大学3年生の時、日大三高が夏の甲子園で優勝を果たす。
このチームにも大内は深く関わっている。

日大三高は毎年12月に約2週間の強化合宿を行なう。
朝5時から夜遅くまでひたすら走り、フラフラになるまでバットを振り込む。
「地獄の冬合宿」と呼ぶ者もいるほど、そのハードさは、
OBたちが「お金をもらっても二度とやりたくない」と口を揃えるものだ。
その「地獄の冬合宿」に、卒業後、お金をもらってもいないのに参加し、
現役選手と同じメニューをこなしたツワモノがいる。ほかならぬ大内だ。

「勝つためにはチームを変えなきゃいけない。そのためには自分も変わらなきゃいけない。
どうすれば変えられる? 何かを乗り越える、修行のようなものが必要だ!と。
それで勝手にテンションが上がって参加してしまったんですけど。
この全部のメニューをこなすことが自分の使命だ! みたいな感じで」

また笑い話にするが、さすがにその時はヘロヘロになって乗り切った。

甲子園を席捲した4番・原島正光(明大―日立製作所)を中心とする強打者たちに、
毎日のようにバッピとして投げていた。大内のクセのないボールを、ポンポンと柵越えしていく選手たち。あの強力打線を育てたのは大内だった、というのはいささか言い過ぎか。
今も当時の優勝メンバーは、大内をイジりながら、まるで同級生のように接している。

大学卒業後、指導者の道を志し、北海道の白樺学園に赴任した大内は、
部長、監督として同校を何度も甲子園出場に導き、11年の夏には初勝利も挙げた。
ちなみにこの大会で優勝したのは日大三高。
白樺学園は2回戦で智辯和歌山に敗れたが、もし勝っていれば母校との対戦という組み合わせだった。





昨秋に東都3部でリーグ優勝を飾った際、選手たちに胴上げされる大内監督(大正大提供写真)

大内が今も指導者をしていく上で忘れていないのが、
自身が大学のセレクションに参加した時に付き添ってくれた小倉監督の姿だ。

「大学の監督に『お願いします』と何度も頭を下げ、関東一高時代の教え子もいたので、
そういう先輩たちを見つけては『頼むな。面倒見てやってくれ』と声を掛けているんです。
その日、監督は子どもさんの誕生日だと後で知って。
レギュラーでもない自分のためにここまでやってくれている。
この先の野球人生、この人を裏切るようなことだけは絶対にしてはいけない、と肝に銘じました」

40歳を過ぎ、さすがに昔のようにバッティングピッチャーで投げる機会は減ったが、
常に選手と一緒に身体を鍛え、いつでも投げられるコンディションを維持している。

「肩や肘が痛くて投げられないという経験は一度もないですね」と言う。

何度も肩肘の手術を重ね、最後は自分の思うようなボールを投げられなくなって引退した松坂大輔。
その部分においては、大内は偉大な同級生に勝ったのかもしれない。

大内にそう言うと、「とんでもない。レベルが違いすぎます。自分なんかと同じ枠で語るのは、
松坂選手に失礼ですよ」とひたすら恐縮していた。



文責 矢崎良一
https://real-voice.jp/ab/5887/#.YtNcI0__87V.lineme



※大内さんが白樺学園に赴任した時からのお付き合いをさせていただいております。
 現在は東京に戻り、母校の大正大学の監督として尽力されています!
 最近はコロナで会う機会は減りましたが、東京出張の時など、時間の許す限り
 会話のキャッチボールで有意義な時間を過ごさせていただいております笑

 二人の夢は夏のキャンプを帯広の森野球場で開催する事です!
 今はコロナで中断していますが、収束したら・・・です!!